大野公士の彫刻作品の存在論
美術評論家 大島幸治
大野公士の木彫トルソは、その形体があまりに個性的であるだけでなく、思索の密度の濃さによって見る者に衝撃を与える。
樟や欅の原木からトルソを彫り出すだけではなく、
その中もくりぬいて、いわば人体の薄い表皮だけを彫りだすのだ。首も、膝から下もないトルソの表皮だけが、5mmからせいぜい1cmの厚みしかない状態で、乾燥した木材の独特の質感を持って表出する。これを彫り出す労力だけでも驚異的だが、そのトルソに金属の棒が刺さり太いワイヤーが巻きつき…、鎖で吊るされ、鉄骨の四角い枠に閉じ込められていたりして、何かカタストロフィーを連想させる緊張感、攻撃性を秘めた表現である。
細いワイヤーを筋肉繊維に見立て、
それによって表皮を剥ぎ取られた人体の筋肉を提示している作品もある。もちろん中は空洞で、皮下の筋肉だけを生々しく構成している。
大野公士がこうした強烈な表現にこだわるのは、なぜなのだろうか。気が遠くなるような莫大な労力を費やす制作過程で大野が考えていることに、私は興味を惹かれる。大野作品では、異なる位相が渾然一体となっていて、独特の「存在」論を提示している。それぞれの位相を選り分けて、彼の作品が発信する記号的な意味を解読してみたいと思う。
第一の位相は、現象学的還元といわれるアプローチである。
彼が人体をそのまま写すことをしないのは、例えば「女性のヌードだ」と言葉を与えてしまうと、目の前にある、けっして取り替えがきかない現存在としてある個体が、抽象的普遍的な人体に変じてしまい、今、目の前にあるこの女性のヌードという衝撃や感動が雲散霧消してしまう。
言葉を与えられる以前の、
現存在そのものと向かい合うというのが現象学的還元という方法だが、大野公士は言葉を与えて、見慣れた対象として安心してしまうことを断固として拒否しているのだ。
しかし大野は、言葉を与えられる以前の現存在にこだわるだけではない。おそらく出発点に過ぎないのだろう。そこには一種のプラトニズムがあって、それがヌードのトルソに凛とした高貴さを与えている気がする。われわれは皆、かつては天上世界の住人であった。それが今、肉体という牢獄に閉じ込められ、肉体があることによって、食欲や性欲、支配欲etc.に振り回されて魂の平安を失っている。
通夜の席でも、気がつくと空腹のために腹がグーグー鳴ったり、不意に襲ってきた尿意や便意でトイレに駆け込むことばかりを考えていたりする。
この世に生を受け、肉体を持つということは、
このように生理現象に追いまくられて魂の優位性を失うということであり、われわれとしては、そうした「自分」という存在の情けなさ、悲しさを超克して天上世界に戻るために、イデアそのものと向き合わねばならない…このように大野公士はわれわれの魂を内に閉じ込めようとする、牢獄としての表皮を表現したいのだろう。大野作品の「表皮」の内部に宿り、閉じ込められてしまった「魂」の悲しみ、この世に降誕してしまった罪業を見つめる視線を、大野の作品の中に見てしまうのである。これが第二の位相である。
しかし、それだけではあるまい。
人間が存在することの「業」のようなものを、彼が感じているのは確かだろうが、その作品には「存在している」ということを肯定する強い意志のようなものが感じられるところから、第三の位相が見えてくる。それは、作品の形体、構成が示している、人間存在の本質的な社会性、間主観的な存在のあり方を問う姿勢である。
棒を突き立てられ、「外界」そのものを象徴するような鉄骨枠に拘束されつつ、それでもそこに自らの「存在」を高らかに肯定しているような強いトルソの姿に、私は、この表皮によって隔てられた空間、つまり何もない体内と外界こそが、大野公士が表現しようとしている本体ではないかと感じてしまう。
大野作品を眺めていると、他者の視線を自己内面化しつつ、じつは外側に「あるべき自分」という表皮を作り上げていく人間の存在のあり方、業や悲しみが感じられるのだ。
つまり大野の表皮は、外側と内側の両方から形成されていくのである。
俳優が、観客の反応を意識しながら与えられた役を演じ、観客の予想を裏切り、越えることで自分の俳優としての力量を演出するように、自分が他者の前に提示する「私」の表面=表皮は、融通無碍に柔軟でなければ、かえって自己限定・自縄自縛の元凶でしかなくなるだろう。ミイラ化した屍体の表皮のように、乾いて硬くなってしまったのなら、その内分に閉じ込められた「私」は、「こんなものは私じゃない」と自己否定を叫ぶしかなくなるだろう。
大野作品に鉄棒が突き刺さり、
鎖が巻きつき、鉄骨枠に囚われているのは、こうした自己演出している「私」と内面の「私」の真実とのズレ、自己疎外感の表れなのかもしれない。
しかし、こうした人間存在への洞察すらもが大野公士の思索の一面でしかないことは、頭部を持つ作品の表情が、きわめて静謐さを保った瞑想的なものであることからも見逃すわけにはいかない。そこでさらに第四の位相が見えてくる。
大野公士のトルソは、しばしば仏像のような形体を示している。それは、彼の土着性を示す原初的なイメージでもあるのだろう。しかしそれは、伝統的な仏像彫刻とは逆の左手で施無畏印を示したりしていて、入念に練られたパロディーでしかない。
インド哲学には大きく六派あるが、一般的に宇宙に遍満する不可分な一なる全体としてのブラフマンが、さまざまな因縁の結果として、ここに「私」という意識を宿してしまうことを指摘する。そのため「私」という意識があり、その「私」から見ると、この世にはたくさんの「私」=アートマンが立ち現れているかのような様相に見える。
本来は宇宙を満たしている、
唯一不可分の、ぶっつづきの原形質であるものが、ハッと我に返って「私」という意識を宿してしまうのである。ヒンドゥー哲学や禅の瞑想では、この「ハッと我に返ってしまう」カラクリを観照して、瞑想の中で宇宙の意識そのものと同化=回帰しようとするのだが、大野作品は、逆に「私」の身体性にこだわる。表皮がどういうわけか生み出されてしまい、その内外は、同じく「空」でしかないのに、内と外を隔てる表皮に気づいてしまう…という、「私」の意識を生み出す身体性=表皮の誕生する瞬間を見きわめようとして格闘しているかに見えるのだ。
おそらく大野は、この表皮を一種のフィクションだと思っているのだろう。第三の位相から見えてくる表皮が果たす役割を、それほど肯定的に表現していないようにも見えるのはこのためだろう。
表皮によって「私」という意識が生まれ、
結果として宇宙意識=ブラフマンにも回帰できず、かといって「私」という存在の胡散臭さも解消できないまま、生きて、やがて死んでいくという存在の限定性も克服することが出来ず、生の不安にさいなまれているのである。
この四層の位相が渾然一体となりながら、「私」を成立させている身体の表皮…、この境界線を見きわめようとして、大野公士は今日も楠の原木から薄い薄い人体の表皮を掘り出しているのだろう。
私は、彼が示すプラトニズムの品格の高さが好きだ。
また彼が第四の位相を拡大し、そこから官能の喜びをも含めて、「生」それ自体を肯定的に謳歌する表現を生み出すのを見てみたいし、第三の位相から間主観的な自我や演劇的な人間存在の同感理論をさらに展開するのも見てみたい。大野公士が彫り出す身体がますます生々しく人間をとらえ、表皮という臨界面を解明していくのを、私は、現代アートにおける現在進行形のスリリングな事件として見守っていきたいと思う。